ガウディの最期
初期のガウディの建築は
現在目にする有名なものとは違い、もう少しシンプルなものであった。
サグラダ・ファミリア主任建築家の傍ら
ほかの建物の建築にも携わったガウディ。
その人生は順調かのようにみえるが
実際には種々の挫折を味わっていたようである。
1894年の4旬節を機に
すべての仕事を放棄したガウディは
命を危険に晒すほどの過酷な断食に入り、
みるみるうちにやせ細った。
自ら死を覚悟するほどに衰弱した彼を救ったのは
ガウディの友人であったカタルーニャ地方出身のトーラス神父である。
そしてガウディの作風は変わっていく。
その後の最初の仕事が件の「ロザリオの間」と、生誕の門である。
断食前に携わっていたサグラダ・ファミリアでは
前任の主任建築家であったビリャールの案を
少しばかり修整し行うものであったが
彼は独自性を出していくのである。
そして彼は
グエル教会など、彼の代表作と現在いわれるものをつくる。
さて
建築家としての存在が大きくなっていったが
彼に対する専門家の評価はさまざまであり
現在まで、酷評にもさらされている。
変わりつつあるスペインの社会情勢、
そして1914年以降
ガウディはごく小さな例外を除き、仕事を受けなくなった。
次々に友人を亡くしていくガウディ。
それはサグラダ・ファミリア建築への傾倒へと彼を導く。
そして市電にひかれ1926年6月10日に没するまで
ガウディは
彼の意志の詰まった、
後継者への手本となるサグラダ・ファミリアの重要な部分の完成、
また教会の最終案を残すことを志す。
彼の死後、サグラダ・ファミリアの建設は容易ではなかった。
内戦や社会風潮の変化などでの中断もある。
しかし
彼の遺志を継いだ者たちにより建設が続いている。
現在は石積みではなくコンクリートによる建設が進められている
これも時代の変化によるものであるが
職人とのつながりを重んじたガウディの精神は深く込められているのだ。