アールデコの建築家

アールデコを代表する建築家の名前をあげるのは

意外に難しい。

専ら建築の内在的な探求から生まれたのではなく、

商業的、政治的な要求に応じた結果か。


服飾家具、照明器具、ポスターなどは

デザイナーを簡単にあげることができるが、

建築となると容易ではない。


フランス建築において多作性、大衆性と意匠性において

最もアールデコ的とされる建築家として

ジャンブーシェがいる。 

 

ブーシェは少なくともパリに72棟の建築を行っている。


ただし彼の経歴ははっきりしていない。

 

アールデコのパイオニアとしては

フランク・ロイド・ライトの名が挙げられる。

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彼は近代建築の巨匠とされているが

1897年のシカゴのオフィスビル案と映画館案のファサード

アールデコと呼んでも差し支えない。


その後プレーリーハウスと総称される多くの住宅を作り出すが

その細部の造形はまさにアールデコ的であった。


ウィーンのセセッションの中には

アールデコの先駆とも見られる造形が多い。

 

オットーワーグナーの生徒たちの作品は

アールデコ的なものが多く

ヨーゼフホフマンのストックレー邸は

アールデコの先駆的作品として名高い。

 

チェコキュビズムによる建築」


1880年頃生まれの建築家がキュビズムの影響を受け、

ユニークな作品を次々と生み出していく。


アールデコの先駆的作品としては

ホホルが1913年に完成させたプラハのヴィシュフラット地区の

三つの作品がある。

 

アールデコ の時代

アールデコの時代は1920年から1930年代。

二つの世界大戦の間の時代となる。


アールデコは大衆を相手として生まれたスタイル。
尖鋭的なアバンギャルドではなかったアールデコの作品は

鮮やかで官能的である。

 

アールヌーヴォーの繊細な官能性がアールデコでは

頑丈で乾いた官能性へと変わっている。

 

この時代、人々の大陸間の移動が飛躍的に増大した。

手段はもっぱら客船によったもので

大型客船内の装飾の主流はアールデコであった。

 

この時代、百貨店が多様化し

市場調査、販売、製造を行うようになり

大衆の生活と密接に関わるようになった。

 

日本でも百貨店が大衆化していった

日本橋三越新宿伊勢丹など)。

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ほか、映画「キャバレー」、ジャズの流行などがあり

アールデコの時代に世界は急速に狭くなりつつあり、

東洋の文化が世界に広まりつつあった。

 

今日の都市文化の基礎はこの時代にできあがっていった。

 

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アールデコとは

アールデコ1920年から1930年頃

二つの世界大戦の間に主流をなした。

造形形式の総称であるが、定着し始めるのは

1960年代の半ば以降である。

 

この名前は1925年にパリで行われた

現代装飾芸術・工業美術国際博覧会にちなむ。


この博覧会の名称の一部、装飾芸術 アールデコラティフが短くされ

アールデコとなった。


このアールデコが、今日用いられる造形様式の名前となったのは

1966年のパリにて

1925年に行われたパリ博を回顧しつつその重要性を取り上げた、

25年代展が開催されてからである。

 

アールヌーボーアールデコ

名前は似ているが直接の因果関係はない 。

 

30年ほどを隔てて流行した2つの様式は

新しい造形を模索した近代運動の「始まり」と「終わり」

に位置している。


アールデコは直線的、無機的、幾何学的、対称的、立体的である。

アールヌーボーは細部造形は平面的であるが、建物としては立体的。

 

アールデコは細部は立体的造形ではあるが

建物としては平面的ともいえる。

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アールデコ建築の特徴」

アールデコ建築は主に鉄筋コンクリート造、

仕上げはタイル張りが多く

白いペイント塗りに一部タイルを張ったものもある。

 

左右対称のファサード円柱、八角柱、コーニス、水平連続窓、

隅窓、円窓、楕円窓、八角形の窓など、

入り口周りにレリーフがしばしば見られたり、

デ・ステイル風の直線の組み合わせによる造形が見られる。

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ローマの奴隷制度

ギリシャもローマも奴隷制の社会であったが、
ギリシャでは

生涯、奴隷は奴隷として生活するのが普通であった。

 

一方ローマでは

解放奴隷という存在が定着しており
奴隷から解放される資格者にはローマ市民権さえも与えられた。

 ローマ人家族は奴隷と密接に関係しており、

奴隷なしでは生活できなかった。

 

共和制時代には戦争奴隷の供給があったが

帝政時代に入ると防衛が主となり

戦争奴隷の数が減っていった。

後に奴隷同士の結婚が奨励されるようになっていく。

ローマ時代にはスパルタクスの乱のような大規模な反乱は

一、二度しかおこっておらず、

主人と奴隷との強い絆が築かれていたようだ。

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パンとサーカス

パンとサーカスという言葉に要約されるように、

ローマ人といえば小麦の無料配布を国から受け、

働く必要もない 。

これまた無料で提供される見世物を楽しんで遊び、

それらの費用は非支配者である属州民からの搾取で賄われた

というのが定説となっている。

 

パンとサーカスというのは紀元100年前後に活躍した

風刺詩人ユヴェナリスが言い出したもの 。

 

パンとサーカスの始まりは紀元前123年。

ガイウスグラックスが成立させた小麦法から始まる。

 

国家が一定量の小麦を買い上げ、

それを市価の半値程度で都市のプロレタリー

(日々の 労働によって生活の糧を得るしかない人々)に

売ることと決めた法律。

 

その後、元老院派のスッラにより撤廃されるが、

民衆派コッタにより復活する。

 

配付数の上限を4万人としたが

元老院派小カトーがその上限を撤廃、
それに対抗した民衆派クロディウスが配布を無料化した。

これは共和政時代の話。

帝政時代になり配給者数が変わっても、無料配布は続く。 

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受給資格者は貧民だが

実際は
首都在住のローマ市民権の所有者なら誰にでも権利があった。

 

需給量は 1日に32.5 kg。
家族が生活をしていくには少ない量であり、

生活をしていくための最低保証なのであった。

 

さてローマ人の休日は不定期であったようだ。

年間約65日と言われており、

現在の先進国とそれほど変わらない数字であった。

 

休日の多くはただ祭儀が行われるだけであったが

あわせて皇帝たちがスポンサーとなって

大規模な見世物が行われた。

 

それは皇帝の人気とりであり、

また世論調査の機能を果たしていた。

 

ローマの1日とは、24時間を

日の出から日没までの12時間、

日没から次の日の出までの12時間としているので、

季節で1時間の長さが違う。

 

通常は日の出前に起き6時頃から仕事、

正午から午後1時ぐらいで終了、その後昼食。
2時からは公衆浴場で疲れを取る。

 

ローマ以外の属州にも

ローマと同様な闘技場があり、公衆浴場がある。
ということは、おそらく

属州民もローマ人と同様の生活を行っていたのではないだろうか。

 

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ローマ法について

ローマ法の基本は

人間に法を合わせるということ。

ユダヤの法は基本的に神が創った法,
したがって規律に絶対である。

それに対しローマ法は人間が作った法、

それゆえ時に応じ人間に合わせ修正されていく。

 

●ローマの都市計画
ローマ式都市は

ローマの被征服地方にも建設された。

 

都市部に神殿があり、フォルム(下記)があり、バジリカがあり、

半円形劇場、円形闘技場ギリシャ式スタジアム、公衆浴場が点在し、

その間を街路と住居と共同の水汲み場が埋めていく。

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街は城壁で守られ、水道橋と街道は外に向かって走っている。


街道はローマ領となった地方全域にわたり舗装が施され、

物資の輸送を容易にした。

 

上下水道も整備され、都市に機能と快適さを求めた。

 

フォルムとは中央広場を指し、

長方形の広場を柱廊が囲む回廊形式。

一辺に神殿、奥にはオフィスや店、一角に私塾形式の学校と、

一日に一度は必ず足を運ぶ場所である。

 

何十キロも離れた水源から高架式の水道を通って運ばれてくる水が

飲料水のほか、浴場にも運ばれ、体を清潔に保ち

病気を防ぐ役割も果たしていたと思われる。

 

ローマ人のまちづくりは後世にも影響を与えた。

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ローマ皇帝、ローマの市民権

ローマ歴代皇帝の中でも評判が悪かったのはカリギュラとネロだが

庶民には人気があったようである。
それは 二人とも初代皇帝アウグストゥスの血筋ということ

そしてカリギュラは二十代半ば、

ネロは10代後半と若い皇帝であったこと、

ふたりの行った悪事が皇帝らしく大規模であったこと

などが関係するようだ。

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コンスタンティヌス帝の前の話に限定すると

合格点がもらえる皇帝は初代皇帝アウグストゥス

五賢帝と呼ばれた5人くらいで

その他の皇帝は悪帝だったようである。

ローマの皇帝は終身制だが暗殺されることが多かった。

●ローマの市民権
古代栄えたローマとギリシャでは

市民権に関する考え方が違っていた。

例えばアテネでは

アテネ市民として市民権を得られるのは

両親ともアテネ市民の場合だけ。

 

ソクラテスアテネ市民だったが

アリストテレスマケドニア生まれだったので市民権を持っていなかった。

 

逆にアテネ生まれの人は

スパルタやリント市民にはなれなかった。

 

一方ローマでは、血ではなく志を重視。
志を共有しさえすれば

征服した敗者の子孫でも市民となりえたのである。

ローマは長命であったが

この開放性が関係しているかは不明ではある。

 

支配者と被支配者が渾然一体となり帝国を築くというのは

後にも先にもローマ帝国だけである。